天邪鬼の独り言

日記、エッセイ、独り言、愚痴、フィクション、なんでもありのブログです。書きたいことを書きたいスタイルで書いていきます。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

年収と社会貢献度は比例するか?

収入の額と社会貢献度は(正)比例するとか、もっと凄いのは、人に与えた感動の量と年収額は比例するとかい言ってる経営コンサルタントや経営者がいるようだが、それは本当だろうか?

先日一審で実刑判決を受けた村上被告は果たして大衆に感動を与えたのだろうか?ホリエはどうだ?親から受け継いだ不動産を売却して巨額の収入を得た地主の二代目は、多くの人々に感動を与えたと言えるだろうか?株式売買で成功しているデイトレーダーは、多くの人々に感動を与えたのだろうか?出世街道を登りつめ、大手企業の社長になった人たちは、多くの人々に感動を与えて来たから、今の地位と収入を得たのだろうか?

逆に、仕事は別に持っていて、あるいは乏しい活動費でボランティアやNGOで社会的弱者救済などの活動を行っている人たちは、対象となる人々に感動を与える量が少ないから収入が少ないと言えるのだろうか?

ミュージシャンや作家、アーティストなどは、人々に与えた感動の量と収入は比例するのかも知れないと思うこともある。 社会的な役割や影響力の大きさ、まあ、大きく言えば社会貢献度ということだが、利益を得ることを大前提にした「仕事」に範囲を限れば、収入との一定の相関関係は確かにあると思う。

しかし、感動すら金銭に換算しようとする価値観や感性には辟易するし、そこには、仕事の内容的評価や社会的な意義や意味についての考察はかけらも感じられない。

それに何より創造性に欠け、ありきたりで陳腐に感じるのは、そいう成金の金持ち連中のプライドの拠り所になっているのが、所有するクルマの種類や値段、住んでる家と所在地(高級住宅地だとか)、着ている服のブランドや値段であることだ。せっかく経済的に余裕ができたのなら、世間から見た金持ち像に合わせるような、人の目を気にしたような使い方をせずに、もっと自分の個性や創造性を満足させるような、あるいは、社会的に意義のあるような使い方を
すればいいのにと思ってしまう。まぁ、お金の使い方や使い道で、その人の人格や人間性がわかると言うこともできるし、ブランドや世間体を基準にした金の使い方しかできないのは、経済力は豊かでも文化的な素養や創造性、個性に関しては、貧しいという言い方もできるだろう。

たしかに貨幣は便利だし大切だし、必要十分なだけ欲しいと誰しも思っているだろう。収入は少ないより多い方がいいという人の方が圧倒的に多いだろうしお金が卑しいというつもりも全くない。 というより、自分だってもっともっとお金が欲しいと思っている。

ただ、全ての価値をお金で換算しないと評価できない、わからないというのは拝金主義でしかないと思うのだが、それに違和感を感じなくなっているとしたら、既に今の日本社会が拝金主義が根付いているということの証拠なのだろうと思う。

こんなことを言うことが、収入が少ないことの証だと言われそうだが、人格が優れているから、社会的に貢献しているから、収入が多いのだと開き直る金持ちを見ると、物事を自分の都合のいいようにしか解釈できない能天気で無神経なエゴイストとしか思えないのは、低所得者の僻みだろうか?

この言い方が癇に障るのは、逆説的に「貧乏人は人格が低く、社会的にも役割を十分に果たしていないからだ」と言っているからだ。(儲かっている)経営者やコンサルタントの台詞で「商品やサービスの値段を決めるときには、ユーザーの財布のことを考える必要はない。そんなことを心配するのは失礼だ」というものがある。この台詞の本音は「可能な限り高い値段を付けた方が儲かる」だ。高すぎても買う人が少なくなるし、安すぎても十分な儲けが出せないというのは当たり前のことだが、本音はやはり可能な限り高い値段を付けることが商売成功の秘訣、ということだろう。それはそれで商売人の自由だと思うが、経営者の中には、自社の商品やサービス必要を必要とする人には、できるだけ多く使って欲しいから、価格は経営可能な線は確保した上で、安目に設定したいという人だっているのだ。こんな人は、きっとユーザーから感謝されるかも知れないが、自身の収入はそれほど多くはならないだろう。

医療や福祉関係の仕事で、利益追求が最大の目的だと言ったら、大顰蹙を買うだろう。でも、今は病院や福祉も「経営=利潤追求」が大切だとマスコミなどでも盛んに言われている。これは正しいだろうか?

軍備はどうだ?北朝鮮の脅威が宣伝され、軍備の必要性や米軍との軍事協力を推進する後押しとなっているが、誰も自衛隊(日本軍)の採算がとれているかどうかとか、米軍に支払っている(負担している)費用の元が取れているかどうかの試算などしないのはなぜか?

軍事関係予算で唯一儲かっている、巨額の利益を得ているのは、兵器産業とその斡旋をしている政治家やビジネスマン、ロビイストたちだけだろう。それらは全て国民が支払った税金で賄われているが、この国では、病気の人でも保険料や医療費の負担ができなければ、病院には行くなという政策を取っているし、福祉関係でも、生活に不自由している人の介護を、予算が無いという理由で切り捨てている。

現実的に言えば、軍事予算など今日明日必要なものではなく、永遠に不要になればいいようなものだ。北朝鮮や中国やロシアが、日本が自衛隊を縮小したら、侵略して攻めて来ると本気で思っている人がいるとすれば、かなりの被害妄想かそれらの国へ偏見と嫌悪感と敵意を抱いている人だけだろう。(あるかどうかもわからないような)外国の侵略の脅威を軽減したければ、日本もスイスやスゥエーデンのように、永世中立の宣言をすればいい。その上で、万が一侵略してくる国があれば、反撃はしますよという姿勢をアピールするためと、災害時への対応のために、必要最小限の軍隊を持てばいいと思う。

沖縄からグアムに移転する米軍の費用(そこには学校建設費や軍人のための住宅建設予算も含まれているという)を数兆円!も負担する予定の政府が、病気や体が不自由な人たちのための予算を削るというのは、政府や与党の政治家や官僚は、きっとアメリカの代理人でしかないという証拠だと思ってしまう。

話が広がりすぎてしまったので、元に戻すと、本当はどんな仕事でも、利潤追求などが最大の目的ではないはずだ。「社会的に必要とされる様々な商品やサービスを必要としている人たちに提供すること」。これが仕事の目的であるはずだ。利益は後からついてくる。経営を、言い換えればサービスや商品を提供し続けるためには、利潤は必要だし会社や組織は存続させねばならない。

しかし、自己の利益だけを最大化することを目的とした商売は、ときに不正に走らせる結果になるし、社会的には評価できない結果を産むことも多いと思う。


というわけで、社会貢献やましてや感動と年収が比例するというのは、利益追求そのものに大義名分を与えたい人たちの、都合のいい言い訳、まやかし、ごまかしだと思う。
スポンサーサイト

- 0 Comments

Leave a comment

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。