財布の中にはカードが4枚入っている。銀行のキ
ャッシュカード、クレジットカード、小売店のポイ
ントカード、レンタルビデオショップの会員カード。
それと社員証もカードになっている。
現金が無くとも、一通りの用は足りる程度にはカ
ードが普及している。カードを忘れると現金を引き
出すことができないから(いまどき通帳と印鑑を持
って銀行へ預金引き出しに行くのは、僕の親くらい
だろう)実質的にはカードさえあれば街へ出て、ほ
とんど全ての用が足りることになる。
カードで直接支払いをすることも、ごく一般的に
なりつつある。そうなると貨幣って何だろうと思う。
通帳に記入された数字が貨幣なのだろうか?我々は
その数字を増やすためにせっせと働いているのだろ
うか?
貨幣が単なる記号なら、希望の金額分の数字を銀
行で記入してくれれば皆、幸せになれるのにと、ふ
と思う。でもそうなると誰もちゃんと働かなくなる
から、経済は成り立たず、社会は崩壊するだろうけ
ど。
貨幣は経済的な価値を交換するための媒体なんだ
と思う。そしてカードは個人が価値交換するための
端末なのだ。
ならば、カードをもっともっと有効活用したらど
うだろうか。買物はもちろん全てカードで支払う。
タクシーに乗るときもカードだ。バスもカード。電
車も同じカードで改札する。
カードの数字(残高)を使う一方ではすぐに0に
なってしますから、働く必要がある。働く人がいな
いと商品もサービスも買うことができないかし。
働いた見返りとして賃金をもらうのだが、それも
カードで済ます。銀行振込などめんどうな手間をか
けずに、働いた会社の端末で直接、働いた分の金額
=数字を入力する。残高が減ってきたら働く。長期
の休暇が欲しい人はまとめて働き残高を増やしてお
く。歳をとったとき働きたくない人は、若い内にた
くさん働いて、残高を増やしておく。
このへんまでは今とほとんど同じだが、雇用の仕
方は変わる。プロジェクトを遂行するための組織は
必要だが、社員という概念はなくなる。プロジェク
トごとに必要なスタッフを募集するのだ。賃金は人
に対してではなく、仕事に対して支払われる。
たとえば、コンビニの店員の仕事は8時間で1万
円、という風に募集する。契約時間はいちおう決め
ておくが、1日単位か1週間単位で働いた分の賃金
(数字)がカードに入力されていく仕組みだ。
カードは価値交換装置としての機能だけではなく、
身分証明(ID)としての機能も付加するのだ。そ
れによって就職の際の履歴書や経歴書などは不要と
なる。面接に行って担当者と話しをし、カードで仕
事歴とスキル、そして個人データを確認するだけだ。
そもそも社員の概念で仕事をするわけではなく、プ
ロジェクトごとに仕事に就くわけだから、要求され
るのは、個人の様々なスキルなのだ。評価されるの
はどこに所属していたか、組織に忠誠心を持ってい
るかではなく、仕事を確実に遂行する能力なのだ。
雇用する人も、プロジェクトのマネジメントの仕
事を選択して、人を採用し監督しているだけで、自
分のポジションとしてそこにいるわけではない。求
人というより、仕事の成果を買うという感覚だ。
そのカードは世界中で共通になる。カードさえあ
れば、どこへでも行けるし、どこででも働ける。物
質的に豊かな生活をしたい人は、個人の時間を削っ
って働くか、高度なスキルやノウハウ、知性が要求
される単価の高い仕事を選ぶ。
このような社会では競争はあまり発生しないだろ
うから、変化に乏しい社会かもしれないが、労働と
賃金の関係が透明で公平だから、風通しのいい社会
だと思うが、いかがだろうか?
ャッシュカード、クレジットカード、小売店のポイ
ントカード、レンタルビデオショップの会員カード。
それと社員証もカードになっている。
現金が無くとも、一通りの用は足りる程度にはカ
ードが普及している。カードを忘れると現金を引き
出すことができないから(いまどき通帳と印鑑を持
って銀行へ預金引き出しに行くのは、僕の親くらい
だろう)実質的にはカードさえあれば街へ出て、ほ
とんど全ての用が足りることになる。
カードで直接支払いをすることも、ごく一般的に
なりつつある。そうなると貨幣って何だろうと思う。
通帳に記入された数字が貨幣なのだろうか?我々は
その数字を増やすためにせっせと働いているのだろ
うか?
貨幣が単なる記号なら、希望の金額分の数字を銀
行で記入してくれれば皆、幸せになれるのにと、ふ
と思う。でもそうなると誰もちゃんと働かなくなる
から、経済は成り立たず、社会は崩壊するだろうけ
ど。
貨幣は経済的な価値を交換するための媒体なんだ
と思う。そしてカードは個人が価値交換するための
端末なのだ。
ならば、カードをもっともっと有効活用したらど
うだろうか。買物はもちろん全てカードで支払う。
タクシーに乗るときもカードだ。バスもカード。電
車も同じカードで改札する。
カードの数字(残高)を使う一方ではすぐに0に
なってしますから、働く必要がある。働く人がいな
いと商品もサービスも買うことができないかし。
働いた見返りとして賃金をもらうのだが、それも
カードで済ます。銀行振込などめんどうな手間をか
けずに、働いた会社の端末で直接、働いた分の金額
=数字を入力する。残高が減ってきたら働く。長期
の休暇が欲しい人はまとめて働き残高を増やしてお
く。歳をとったとき働きたくない人は、若い内にた
くさん働いて、残高を増やしておく。
このへんまでは今とほとんど同じだが、雇用の仕
方は変わる。プロジェクトを遂行するための組織は
必要だが、社員という概念はなくなる。プロジェク
トごとに必要なスタッフを募集するのだ。賃金は人
に対してではなく、仕事に対して支払われる。
たとえば、コンビニの店員の仕事は8時間で1万
円、という風に募集する。契約時間はいちおう決め
ておくが、1日単位か1週間単位で働いた分の賃金
(数字)がカードに入力されていく仕組みだ。
カードは価値交換装置としての機能だけではなく、
身分証明(ID)としての機能も付加するのだ。そ
れによって就職の際の履歴書や経歴書などは不要と
なる。面接に行って担当者と話しをし、カードで仕
事歴とスキル、そして個人データを確認するだけだ。
そもそも社員の概念で仕事をするわけではなく、プ
ロジェクトごとに仕事に就くわけだから、要求され
るのは、個人の様々なスキルなのだ。評価されるの
はどこに所属していたか、組織に忠誠心を持ってい
るかではなく、仕事を確実に遂行する能力なのだ。
雇用する人も、プロジェクトのマネジメントの仕
事を選択して、人を採用し監督しているだけで、自
分のポジションとしてそこにいるわけではない。求
人というより、仕事の成果を買うという感覚だ。
そのカードは世界中で共通になる。カードさえあ
れば、どこへでも行けるし、どこででも働ける。物
質的に豊かな生活をしたい人は、個人の時間を削っ
って働くか、高度なスキルやノウハウ、知性が要求
される単価の高い仕事を選ぶ。
このような社会では競争はあまり発生しないだろ
うから、変化に乏しい社会かもしれないが、労働と
賃金の関係が透明で公平だから、風通しのいい社会
だと思うが、いかがだろうか?
夕食にいつもより多目にビール(発泡酒)を飲んだせいか、父が死ぬ1年ほど前のまだ元気だったときに、僕に確認するように言い残した言葉を思い出していた。
久しぶりに帰省して帰る日に唐突に僕に聞いたことは…
「生まれてきて、よかったと思ってるか?」
(実際は方言でしゃべってるので、表現は違うが)
突然、重たいことを聞かれたので、言葉につまったが、
もちろん冗談ではなく真剣に確かめたかったようなので、
まじめに答えた。
「もちろん、生まれてきてよかったと思ってる」
それを聞くと父はとてもうれしそうな顔になり、ほっとしたように重たいことを言い残した。
父の会社が取引先の倒産の煽りを受けて連鎖倒産してから、高校を卒業して
郷里を離れ、美術学校に通っていた7年間ほどは、経済的に大変な時期で、
家の中がごたごたして家族間の諍いが絶えず、その煽りを一番受けたのは自分だった。
父は、一番勉学に励み、青春を謳歌する時期に、僕に大変な思いをさせていたことが
気にかかっていたようだ。当時も今もだが、自分の家庭も持たずにいる僕の人生を心配し、
僕が自分の人生に満足してるか聞いておきかたかったのだろう。
「先に行ってるからな」
話の流れからして、「行く」は、あの世に逝くということだとすぐわかった。
そんなことを思い出してたら、電話が鳴った。
母からだった。
「おばさんが亡くなった」
昨年珍しくお歳暮が叔母から届いたので、礼状を書いたのが最後になった。
心臓付近の血管に動脈瘤が見つかり、手術したとのことだったが、
手術後の経過が悪く亡くなったとのこと。
おそらく危険だから、手術で瘤を取り除くことにしたのだろうが、
もう80歳を超えてるのだから、そのままにしておいたほうがもっと生きられたように感じた。
家族、親戚に関しては、新たな出会いはもうないだろう。
一人、一人と去っていくのみだ。
久しぶりに帰省して帰る日に唐突に僕に聞いたことは…
「生まれてきて、よかったと思ってるか?」
(実際は方言でしゃべってるので、表現は違うが)
突然、重たいことを聞かれたので、言葉につまったが、
もちろん冗談ではなく真剣に確かめたかったようなので、
まじめに答えた。
「もちろん、生まれてきてよかったと思ってる」
それを聞くと父はとてもうれしそうな顔になり、ほっとしたように重たいことを言い残した。
父の会社が取引先の倒産の煽りを受けて連鎖倒産してから、高校を卒業して
郷里を離れ、美術学校に通っていた7年間ほどは、経済的に大変な時期で、
家の中がごたごたして家族間の諍いが絶えず、その煽りを一番受けたのは自分だった。
父は、一番勉学に励み、青春を謳歌する時期に、僕に大変な思いをさせていたことが
気にかかっていたようだ。当時も今もだが、自分の家庭も持たずにいる僕の人生を心配し、
僕が自分の人生に満足してるか聞いておきかたかったのだろう。
「先に行ってるからな」
話の流れからして、「行く」は、あの世に逝くということだとすぐわかった。
そんなことを思い出してたら、電話が鳴った。
母からだった。
「おばさんが亡くなった」
昨年珍しくお歳暮が叔母から届いたので、礼状を書いたのが最後になった。
心臓付近の血管に動脈瘤が見つかり、手術したとのことだったが、
手術後の経過が悪く亡くなったとのこと。
おそらく危険だから、手術で瘤を取り除くことにしたのだろうが、
もう80歳を超えてるのだから、そのままにしておいたほうがもっと生きられたように感じた。
家族、親戚に関しては、新たな出会いはもうないだろう。
一人、一人と去っていくのみだ。
私はひとりぼっちだ。
10年以上、友人と呼べる人がいない。
5年以上も恋人と呼べる女もいない。
父親は6年前に亡くなった。
母親は私をほとんど理解しようとしない。
兄は、私を見下し強圧的な態度だ。
弟も、私を見下し攻撃的だ。
だから、兄弟とはもう会いたくもないし、母親とも距離を感じている。
私ももう半世紀も生きてきたが、妻も子もいない。
自分以上に独りぼっちの人間はいないのではないかと思うくらいの境遇だと思う。
でも、孤独ではない。
なぜかと言えば、あまり寂しくないからだ。
一人の方が自由でいられるから好きなのかも知れない。
あるいは、親兄弟、恋人友人知人から、手ひどい裏切りをされたから、人間不信、対人緊張が強いのかも知れない。
そんな私だが、自殺などあまり考えたことはない。
だから、私ほど孤独でない人たちが、自殺したり精神的に不安定になったり、孤独が耐え難いなどと言うのを聞いても、あまり同情心は起きない。
「俺の方ずーと独りぼっちだよ」って、思うような人ばかりだから。
10年以上、友人と呼べる人がいない。
5年以上も恋人と呼べる女もいない。
父親は6年前に亡くなった。
母親は私をほとんど理解しようとしない。
兄は、私を見下し強圧的な態度だ。
弟も、私を見下し攻撃的だ。
だから、兄弟とはもう会いたくもないし、母親とも距離を感じている。
私ももう半世紀も生きてきたが、妻も子もいない。
自分以上に独りぼっちの人間はいないのではないかと思うくらいの境遇だと思う。
でも、孤独ではない。
なぜかと言えば、あまり寂しくないからだ。
一人の方が自由でいられるから好きなのかも知れない。
あるいは、親兄弟、恋人友人知人から、手ひどい裏切りをされたから、人間不信、対人緊張が強いのかも知れない。
そんな私だが、自殺などあまり考えたことはない。
だから、私ほど孤独でない人たちが、自殺したり精神的に不安定になったり、孤独が耐え難いなどと言うのを聞いても、あまり同情心は起きない。
「俺の方ずーと独りぼっちだよ」って、思うような人ばかりだから。
忘れがたい体験が多いネパールだが、いいことばかりではなかった。
ポカラでは、ペワタールという湖に面したロッヂに滞在していたのだが、ある日、隣の部屋に日本人のカップルが来た。
翌日、湖の湖畔で散歩していると、カップルの女性の方と出合った。なんとなく座り込み、旅の話とか日本では何をしてたとか話をした。
彼女は、日本での仕事にあまりやりがいが感じられず、今後の進路を考えるために、日本を離れて、以前から行きたかったネパールに来たというような話をした。彼女は当時28歳だった。
彼女からヒマラヤの何とか山の麓までトレッキングに行かないかと誘われた。「彼と行けばいい」と答えると、ここへ来て声をかけられただけで、夫婦でも恋人でもないという。それに、別のルートでトレッキングに行く予定で、もうセスナの予約がしてあると言いうと、彼女は、「じゃあ、一人で行く」と言った。
海外の個人旅行は初めてだという彼女には、ちょっと危険だと思ったので、「ムクチナートから帰ってきてからなら行ってもいい」と言ったが、「現地の人は素朴でいい人だから、大丈夫よ。もしあなたが帰ってきたとき、まだ私が行ってなかったら、一緒に行きましょう」と言った。お互い帰って来たら、それぞれのトレッキングについて話をしようとも言って別れたが、それが最後になった。
同室の彼とその後でロッヂの庭でチャイを飲みながら話をしたが、当時で40歳位、妻子があり、若い頃、海外をぶらぶらしてそうだ。よく家族が一人で長期旅行するのを許したと思ったが、よけいなことは言わなかった。彼はどうみても、山歩きなどしないタイプのようだった。
トレッキングから帰ってきて、少し休んでのんびりしようと思いながら荷物を預けておいたロッヂに戻ってきた。彼女と会える期待もしていたが、ロッヂの中に緊張感があり、様子が変だった。
旅行者風の背の高い日本人が近づいて来て、トレッキングの前に泊まっていた部屋の位置を確認した後、隣に泊まっていた日本人のカップルの女性を知ってるかと聞く。知ってると言うと、身元確認をしてくれと言われた。彼の後ろにはNHKの記者と現地の警察官が立っていた。
トレッキング先で彼女は殺されたのだ。遺体の写真があるから、確認してくれと言う。見たくはなかったが、断るわけにもいかない。彼は覚悟はいいか?と聞き、俺がうなずくと写真を取り出して見せた。顔の細かい表情までは写ってなかったが、服装と髪型から彼女だと感じた。服装の色なども確認されたが(写真は白黒だったので)、エンジ色のインド風の服は、彼女が着ていたものに間違いはなかった。
とてもショックだった。たった数日とはいえ、知り合って話しをした女性が、無残な死に方をしたのだ。そのときは、トレッキングになど行かなければよかったと思ったし、彼女の対しても、どうして一人で行ったのかと、少し非難する気持ちがあった。時間が戻せるなら行く前に戻したいとも思った。
犯人は、その時点ではまだ不明だったが、現地人が犯人だという見方を警察はしているようだったが、カップルの男の方が消えているので、少し疑っているようだった。
その彼とは、飛行機でインドに入った空港で偶然バッタリと出合った。彼女が殺され、「行方不明のあなたも疑われているようだ」と伝えると、知っていると答えた。疑いを晴らすために、ネパールに戻るところだと答えた。
NHKの記者を案内してきた長身の旅行者とは、インドの聖地、バナラシ(ベナレス)旧市街の雑踏の中で再び出会った。彼女の親の住所を知っているから、もし訪ねてみる気があれば教えると言われたが、旅の途中だったし、ちょっと話をしただけの関係だからと言って断った。
それから、何度か、彼女のことを思い出したが、あのとき、俺が一緒に行ってやればと少しだけだが、後悔する気持ちが今もある。
両親にも、彼女がポカラでのびのびしてたことを話してやれば…、そしてお墓にお参りしてやればよかったなと、思うことがある。
生きていれば、きっといいお母さんになっていたことだろう。
25年以上経ってしまったが、ご冥福をお祈りします。
ポカラでは、ペワタールという湖に面したロッヂに滞在していたのだが、ある日、隣の部屋に日本人のカップルが来た。
翌日、湖の湖畔で散歩していると、カップルの女性の方と出合った。なんとなく座り込み、旅の話とか日本では何をしてたとか話をした。
彼女は、日本での仕事にあまりやりがいが感じられず、今後の進路を考えるために、日本を離れて、以前から行きたかったネパールに来たというような話をした。彼女は当時28歳だった。
彼女からヒマラヤの何とか山の麓までトレッキングに行かないかと誘われた。「彼と行けばいい」と答えると、ここへ来て声をかけられただけで、夫婦でも恋人でもないという。それに、別のルートでトレッキングに行く予定で、もうセスナの予約がしてあると言いうと、彼女は、「じゃあ、一人で行く」と言った。
海外の個人旅行は初めてだという彼女には、ちょっと危険だと思ったので、「ムクチナートから帰ってきてからなら行ってもいい」と言ったが、「現地の人は素朴でいい人だから、大丈夫よ。もしあなたが帰ってきたとき、まだ私が行ってなかったら、一緒に行きましょう」と言った。お互い帰って来たら、それぞれのトレッキングについて話をしようとも言って別れたが、それが最後になった。
同室の彼とその後でロッヂの庭でチャイを飲みながら話をしたが、当時で40歳位、妻子があり、若い頃、海外をぶらぶらしてそうだ。よく家族が一人で長期旅行するのを許したと思ったが、よけいなことは言わなかった。彼はどうみても、山歩きなどしないタイプのようだった。
トレッキングから帰ってきて、少し休んでのんびりしようと思いながら荷物を預けておいたロッヂに戻ってきた。彼女と会える期待もしていたが、ロッヂの中に緊張感があり、様子が変だった。
旅行者風の背の高い日本人が近づいて来て、トレッキングの前に泊まっていた部屋の位置を確認した後、隣に泊まっていた日本人のカップルの女性を知ってるかと聞く。知ってると言うと、身元確認をしてくれと言われた。彼の後ろにはNHKの記者と現地の警察官が立っていた。
トレッキング先で彼女は殺されたのだ。遺体の写真があるから、確認してくれと言う。見たくはなかったが、断るわけにもいかない。彼は覚悟はいいか?と聞き、俺がうなずくと写真を取り出して見せた。顔の細かい表情までは写ってなかったが、服装と髪型から彼女だと感じた。服装の色なども確認されたが(写真は白黒だったので)、エンジ色のインド風の服は、彼女が着ていたものに間違いはなかった。
とてもショックだった。たった数日とはいえ、知り合って話しをした女性が、無残な死に方をしたのだ。そのときは、トレッキングになど行かなければよかったと思ったし、彼女の対しても、どうして一人で行ったのかと、少し非難する気持ちがあった。時間が戻せるなら行く前に戻したいとも思った。
犯人は、その時点ではまだ不明だったが、現地人が犯人だという見方を警察はしているようだったが、カップルの男の方が消えているので、少し疑っているようだった。
その彼とは、飛行機でインドに入った空港で偶然バッタリと出合った。彼女が殺され、「行方不明のあなたも疑われているようだ」と伝えると、知っていると答えた。疑いを晴らすために、ネパールに戻るところだと答えた。
NHKの記者を案内してきた長身の旅行者とは、インドの聖地、バナラシ(ベナレス)旧市街の雑踏の中で再び出会った。彼女の親の住所を知っているから、もし訪ねてみる気があれば教えると言われたが、旅の途中だったし、ちょっと話をしただけの関係だからと言って断った。
それから、何度か、彼女のことを思い出したが、あのとき、俺が一緒に行ってやればと少しだけだが、後悔する気持ちが今もある。
両親にも、彼女がポカラでのびのびしてたことを話してやれば…、そしてお墓にお参りしてやればよかったなと、思うことがある。
生きていれば、きっといいお母さんになっていたことだろう。
25年以上経ってしまったが、ご冥福をお祈りします。
タレント的な霊能者がホストを勤める番組が人気を集めてから数年が経ちましたが、
その影響のためか、輪廻転生(生まれ変わり)を信じる人が増えているようです。
肉体が滅んでも魂は生前の姿のままで存在し続けるという信仰も、
輪廻転生の一種のような気がします。
過去生を信じる、信じないは、個人の自由です。
それによって、人格や価値観の良し悪しまで判断するのは、的外れだと思います。
四川省の巨大地震によって、チベット自治区騒乱の話題は遠のきましたが、
ダライラマの地位は輪廻転生に基づいていることは、よく知られています。
私自身は、輪廻転生に関心がありました。
ドキュメンタリー作家の書いた、自分自身がルネサンス時代のイタリア人
(確か彫刻家)の生まれ変わりだと、ある霊能者に言われたことを
きっかけにして、その人物が実在したのか検証の旅に出るという
作品を読んだりしました。
それ以外にも、過去生の記憶を持っているという子供のインタビューを
まとめた本を読んだこともあります。
でも、今の私には、過去生などというものは存在しないという立場です。
自分が自分であるという認識(意識)は、
体験の蓄積からくる記憶に基づいているはずです。
前世の影響とか、過去の特定の人格の持ち主の生まれ変われ
を信じるのは、信仰(宗教)の一種という感じがします。
私も物質と精神のエネルギーは不滅だと信じていますが。
前世の考え方が腑に落ちない一番の理由は、
自分に過去生の記憶などないからですが、
それと同時に整合性がないと感じる理由は、
現在60億以上いる人類は、たった1万年前には、
500万人から多くても1千万人と推計されています。
現代人のルーツは東アフリカにあり、約5万年前前後に世界各地へ移住しはじめたことが、
ミトコンドリアDNAの解析でわかっています。
移住の動機は、気候変動などの影響か、食物が少なくなったからといわれています。
現在に人類は、その時期に絶滅しかけたそうです。
人口としては、現在の全ての人類の祖先と言われている集団に限れば、
数百人規模にまで減ったとされています。
その事実を踏まえて考えてみると、
輪廻転生に必要な魂の数?!は、
過去の遡れば遡るほど数が合わなくなるということになります。
中世では何何だったとか、聞きますが、
その時代の人口は、いまの10分の一以下です。
人類全体のルーツも、700万年前ということになっています。
2千万年年前(地球の歴史に比べたら、つい最近のことです)には、
人類は影も形も無かった。
この事実を踏まえて考えると、DNAの情報は命が続く限り
受け継がれていきますが(これは証明された事実です)
人格を持った存在としての前世など疑問を感じる方が
自然だと思います。
2千万年年前(地球の歴史に比べたら、つい最近のことです)には、
人類は影も形も無かった。
この事実を踏まえて考えると、DNAの情報は命が続く限り
受け継がれていきますが、
同一の人格を持った存在としての生まれ変わるというのは、
あり得ないと思っています。
過去の記憶があったとしても、それは現在の自分とは
別の人格であり、別の人物なので、アイデンティティが同じで
肉体は別、当然経験したことも別、
時間的にも隔たった時代に生きた人物が同一人物だというのは、
無理があると感じます。
それと、人と人、人と動物植物たちも、我々が考えているほど、
各自が独立した存在ではないし、人と人同士なら意識レベルでも
同調していることが多いですよ。そう考えると、魂というものが
あるとして、それが社会的な人格のように、完全に独立した個人
に属するものと考えるのは、無理があるような気がします。
我々の意識はつながっている側面が多いからです。
ましてや、肉体を離れた魂が、他の意識や記憶と独立して、
現世のままのカタチで存在し続け、さらに
別に肉体に宿るなどという話は、今の私には信じがたいことです。
過去の記憶がある人へのインタビュー自体は本当だと思います。
しかし、その記憶イコール輪廻転生、過去生の証明にはならないと思いますね。
私に考え、世界観では、
精神的なカタチをとったエネルギーは、
(人の精神なり心なり魂と読んでもいいと思いますが、)
肉体という個性を持った存在が滅んだ後は、
人類、もっと言えば、宇宙全体の意識の中に戻って行くのだと思います。
それぞれの人々が経験し感じた記憶は、肉体が滅んでも消えることはない。
ただ、それは宇宙の全体意識のようなところにストックされている。
過去生の記憶がある人は、ある特定の過去の人物の記憶と同調する能力がある
(アクセスできる)のだと思います。
その影響のためか、輪廻転生(生まれ変わり)を信じる人が増えているようです。
肉体が滅んでも魂は生前の姿のままで存在し続けるという信仰も、
輪廻転生の一種のような気がします。
過去生を信じる、信じないは、個人の自由です。
それによって、人格や価値観の良し悪しまで判断するのは、的外れだと思います。
四川省の巨大地震によって、チベット自治区騒乱の話題は遠のきましたが、
ダライラマの地位は輪廻転生に基づいていることは、よく知られています。
私自身は、輪廻転生に関心がありました。
ドキュメンタリー作家の書いた、自分自身がルネサンス時代のイタリア人
(確か彫刻家)の生まれ変わりだと、ある霊能者に言われたことを
きっかけにして、その人物が実在したのか検証の旅に出るという
作品を読んだりしました。
それ以外にも、過去生の記憶を持っているという子供のインタビューを
まとめた本を読んだこともあります。
でも、今の私には、過去生などというものは存在しないという立場です。
自分が自分であるという認識(意識)は、
体験の蓄積からくる記憶に基づいているはずです。
前世の影響とか、過去の特定の人格の持ち主の生まれ変われ
を信じるのは、信仰(宗教)の一種という感じがします。
私も物質と精神のエネルギーは不滅だと信じていますが。
前世の考え方が腑に落ちない一番の理由は、
自分に過去生の記憶などないからですが、
それと同時に整合性がないと感じる理由は、
現在60億以上いる人類は、たった1万年前には、
500万人から多くても1千万人と推計されています。
現代人のルーツは東アフリカにあり、約5万年前前後に世界各地へ移住しはじめたことが、
ミトコンドリアDNAの解析でわかっています。
移住の動機は、気候変動などの影響か、食物が少なくなったからといわれています。
現在に人類は、その時期に絶滅しかけたそうです。
人口としては、現在の全ての人類の祖先と言われている集団に限れば、
数百人規模にまで減ったとされています。
その事実を踏まえて考えてみると、
輪廻転生に必要な魂の数?!は、
過去の遡れば遡るほど数が合わなくなるということになります。
中世では何何だったとか、聞きますが、
その時代の人口は、いまの10分の一以下です。
人類全体のルーツも、700万年前ということになっています。
2千万年年前(地球の歴史に比べたら、つい最近のことです)には、
人類は影も形も無かった。
この事実を踏まえて考えると、DNAの情報は命が続く限り
受け継がれていきますが(これは証明された事実です)
人格を持った存在としての前世など疑問を感じる方が
自然だと思います。
2千万年年前(地球の歴史に比べたら、つい最近のことです)には、
人類は影も形も無かった。
この事実を踏まえて考えると、DNAの情報は命が続く限り
受け継がれていきますが、
同一の人格を持った存在としての生まれ変わるというのは、
あり得ないと思っています。
過去の記憶があったとしても、それは現在の自分とは
別の人格であり、別の人物なので、アイデンティティが同じで
肉体は別、当然経験したことも別、
時間的にも隔たった時代に生きた人物が同一人物だというのは、
無理があると感じます。
それと、人と人、人と動物植物たちも、我々が考えているほど、
各自が独立した存在ではないし、人と人同士なら意識レベルでも
同調していることが多いですよ。そう考えると、魂というものが
あるとして、それが社会的な人格のように、完全に独立した個人
に属するものと考えるのは、無理があるような気がします。
我々の意識はつながっている側面が多いからです。
ましてや、肉体を離れた魂が、他の意識や記憶と独立して、
現世のままのカタチで存在し続け、さらに
別に肉体に宿るなどという話は、今の私には信じがたいことです。
過去の記憶がある人へのインタビュー自体は本当だと思います。
しかし、その記憶イコール輪廻転生、過去生の証明にはならないと思いますね。
私に考え、世界観では、
精神的なカタチをとったエネルギーは、
(人の精神なり心なり魂と読んでもいいと思いますが、)
肉体という個性を持った存在が滅んだ後は、
人類、もっと言えば、宇宙全体の意識の中に戻って行くのだと思います。
それぞれの人々が経験し感じた記憶は、肉体が滅んでも消えることはない。
ただ、それは宇宙の全体意識のようなところにストックされている。
過去生の記憶がある人は、ある特定の過去の人物の記憶と同調する能力がある
(アクセスできる)のだと思います。
